さいとう淳一郎物語

さいとう淳一郎の歩みをご紹介します。

 

1 出生~高校時代-多くの仲間に恵まれて-

昭和47年、後に栃木県民の日となる6月15日に、当時は鹿島町にあった塩谷病院で、齋藤洋、敦子の長男として誕生する。父親:洋の「氵」と母親:敦子の「享」を組み合わせて「淳一郎」と命名された。
矢板幼稚園を卒園後、昭和54年4月に矢板西小学校に入学した。自宅からは路線バスを利用して通学した。6年間クラス替えがなかった小さな小学校だったが、野球、サッカー、陸上競技とクラブ活動は何でも経験することができた。また6年生の時に児童会長を務める。中学、高校と比較してクラス会の出席率が高いのは、6年間ともに過ごしてきたからに他ならない。
昭和60年4月に矢板中学校に入学した。バス通学から一転して高低差のきつい道のりを自転車通学した。剣道部に籍を置きながら、ハードな自転車通学が格好のトレーニングとなり、持久走では陸上部の助っ人としても活躍した。3年生前期には生徒会長を務めた。生徒会の仲間とは今でも9クラス合同のクラス会を企画したりしている。
昭和63年4月に大田原高校に進学した。国内においては平成改元、国際社会においてはベルリンの壁崩壊や湾岸戦争といった大きな歴史の転換期を紫塚の学び舎で過ごした。大高名物の「85キロ強歩」は3年生の時に大雨のために途中の黒磯中学校で中止されてしまい、“3年間完歩”が達成できなかったのは今となっては悔しい思い出である。
なお、大高でも2年生から3年生にかけて、生徒会議長を務めた。

小学1年生の時に国会議事堂を訪れて 大高85キロ強歩で長峰公園に到着して

昭和63年後期から平成2年前期にかけて、書記・議長として活躍した斎藤淳一郎も、その巧みな弁舌をいかしてとうとうと自説を述べる様は、あたかも古代ギリシアの雄弁家もかくありなんと思わせるほどの迫力があって、印象深い人物である。なお、彼は現在早稲田大学雄弁会で大活躍している。
(出所:「大高90年誌-昭和より平成への10年間の歩み-」138頁)

 

2 大学時代-「都の西北」で何事にも全力投球-

平成3年4月に早稲田大学教育学部に進学した。中島峰広教授、宮口侗廸教授のもとで地理学を専攻し、卒業論文のテーマは「グリーンツーリズム-その地域活性化に果たす役割-」で、ゼミ生を代表して全国地理学専攻生「卒業論文発表大会」で発表する機会にも恵まれた。 また、全国各地でまちづくりの先進事例を見て回ったほか、ドイツ、スイス、イタリアにも足を伸ばし、海の彼方でも、日本とはそう変わらない地域社会の問題を解決するために懸命に努力している人たちに会って、大いに刺激を受けた。 サークルは竹下登、海部俊樹、小渕恵三、森喜朗の4人の総理大臣を輩出した雄弁会に所属し、3年生の時に副幹事長を務めた。東京六大学雄弁大会をはじめとする大学対抗の弁論大会で3度優勝したが、満を持して出場した早稲田大学雄弁会創立90周年記念大隈杯争奪雄弁大会では3位に終わった。また実行委員長として、細川護煕日本新党代表を招いたシンポジウムを成功させた。

【各人の雄弁会での活動】
▽斎藤淳一郎 その行動力とマメさは他の追随を許さず、また人情家でもある斎藤は、中央集権体制からの脱却、新たな政治体制の確立に取り組んでいた。1年後期に「今、コメから考える遊説」を、また2年前期に日本新党の結党まもない細川護煕氏を大隈講堂に招き「現代日本の世開けイベント」をそれぞれ実行委員長として実施するなど機をみるに敏な行動を続けた。また、弁論大会で3度の優勝を果たした。(大隈杯への悲喜こもごもな体験談は本史第5章で本人が書いている。)

【各人の雄弁会の考え方】
1年後期の演練幹事を皮切りに、2年前期の研究幹事、同後期の演練幹事、3年後期の副幹事長兼機関誌幹事と、雄弁会を支え続けた斎藤。ことに、2回目の演練幹事時代には、演練強化週間など次々と新機軸を展開した。また、最も辛辣な雄弁会新秩序への警告者ではあったが、常に、状況的に行き詰まっている会員の声を汲み取ろうと一所懸命な側面も散見された。
(出所:「早稲田大学雄弁会100年史」285~286頁)

早稲田大学大隈講堂を背景に 恩師の中島峰広学教授と ドイツ・ローテンブルク市役所を訪れて
春秋杯争奪弁論大会 討論の部 細川護煕日本新党代表を囲んで 大隈杯争奪雄弁大会

大学3年生の時から、当時自民党副総裁だった小渕恵三元総理の議員会館の事務所で生きた政治の勉強をさせていただいた。そこで垣間見た「気配りの小渕」といわれた小渕元総理の政治姿勢と秘書団の熱心な仕事ぶりは、その後の人格形成に大きな影響を与えた。

第2議員会館配布委員の声
4・5階担当 小渕恵三事務所 齋藤淳一郎
第2議員会館4・5階の秘書協ニュースの配布は、小渕恵三事務所の多忙を極める秘書さんに代わって私たち学生の仕事です。各室のポストに投函するだけの仕事ですが、何度か続けているうちに「ご苦労様です」と声をかけて下さる方もいて励みになります。
「議員秘書」は一般にイメージしにくい職業だと思います。しかし事務所でのお手伝いや秘書協ニュースを配布の際に目を通したりして、議員の縁の下の力持ちに徹しながらも希望を持って朗らかに仕事をしている、そんな実像が浮かんできました。
現在就職活動中ですが、秘書という仕事もなかなか魅力のある職業だなと思う今日この頃です。
(出所:「衆院秘書協ニュース」1994年7月11日号)

大学4年生の時に栃木県職員採用試験に合格していたが、大学院教育学研究科修士課程に進学した。この時期、県職員採用試験とあわせて国会議員政策担当秘書の資格試験にも合格している。
雄弁会の活動と議員会館通いにかまけて授業に出なかったことを反省しての大学院進学だったが、雄弁会の2年先輩だった長峯誠さん(現在、宮崎県都城市長)の父親である長峯基参議院議員が小渕派に所属することになったことから、急遽その政策担当秘書をさせていただくことになった。
「政治に愛を」をモットーに、県職員(薬剤師)を経て県議に転身した長峯先生には多くのことを教えられた。参議院厚生委員会で「薬害エイズ問題」を厳しく追及した長峯先生のお手伝いさせていただいたことは、貴重な経験になった。政治家を引退した長峯先生には今でも時折、地元の宮崎県から電話で叱咤激励いただいている。

 

3 県職員時代-県勢発展のために力を尽くす-

栃木県職員採用試験(Ⅰ種行政職)に再び合格し、平成9年4月に晴れて栃木県庁に入庁した。
初めての配属先は大田原土木事務所用地部だった。新採職員ながら国道461号大田原西那須野バイパス、国道461号奥沢バイパス、県道西那須野那須線といった重要路線を担当することができた。また、平成10年の那須災害での“修羅場”を経験し、危機管理の重要性を学び取った。

平成13年4月に商工労働観光部商工振興課に異動する。団体指導担当において県内の商工会・商工会議所、青年会議所に関する業務にあたった後、日米会話学院官庁企業委託科、日本貿易振興会(ジェトロ)海外調査部中国・北アジアチームへの派遣を経て、平成14年4月にジェトロ香港センター内に設置された栃木県香港駐在員事務所に赴任した。

県香港駐在員は自分から希望したポジションではなかったが、「県内企業の海外展開支援」「外国人観光客の誘致」「県産品の輸出促進」といった県内経済の国際化に関する業務に全力で取り組んだ。なお、具体的な活動内容を下野新聞「県香港駐在リポート」として紹介したが、後にこの連載記事に加筆修正して単行本化したのが、「アジアの臍から-香港駐在リポート-」である。

平成17年4月に栃木県庁に復帰した。農務部農地計画課及び農政部農政課において、農地転用許可や農振地域制度といった農業上の土地利用調整にあたった。県北地域の大規模商業施設の出店計画やさくら市の本田技術研究所の進出計画といった大規模案件を担当し、“地べた”を通じて、地域づくりの将来像について思いを巡らすことができた。
平成20年4月に保健福祉部障害福祉課に異動する。企画推進担当において、「新とちぎ障害者プラン21(栃木県障害者計画・栃木県障害福祉計画(第二期計画))の策定にあたったほか、障害者の就労を支援するために授産製品の展示即売会「とちぎナイスハートバザールINけんちょう」を企画した。

浙江省対外経済貿易合作庁を訪問して 香港「日本旅遊節」で栃木県をPR
栃木放送「県政スクランブル」に出演して とちぎナイスハートバザールにて

4 地域のために、地域とともに

20歳の時に矢板市成人式実行委員会に参加したのが、地域での活動の第一歩だった。今では新成人自身による成人式の運営は珍しくないが、当時は先進的な取組として新聞でも取り上げられた。
その後「栃木県青年の船」の団員として中国に渡航する機会に恵まれた。高度経済成長直前の中国を訪れることができたのは、後に香港駐在員として赴任する際に貴重な経験となった。また青年の船の参加を通じて、同世代のネットワークが県内全域に一気に広がった。
平成21年度には、矢板市生涯学習課が主催する「矢板武塾」に第6期生として参加した。宇都宮大学の陣内雄次教授の指導のもと「まちづくり事業計画」を発表し、多くの賛同者を得ることができた。また矢板市総合計画策定検討委員会にも公募委員として参加し、21世紀にふさわしい矢板市の将来都市像の実現を目指して次期総合計画の基本構想や基本構想素案の検討にあたった。


「広報やいた」(平成19年4月1日号)への寄稿

矢板市総合計画策定検討委員会での1コマ 矢板市まちづくり事業計画発表会